亀山めぐり唄

余 談

 

 6番

「せつ(梅雨)が過ぎれば、せつないね」

と書いて、秋の[しょうぶ園]の写真を添えましたが、その隣の亀山公園の紅葉は、実にみごとで、その写真を載せなければ誤解を

招きかねませんので、何枚か紹介します。

 ただし、森進一が

「襟裳の春は、何もない春です」と歌って、観光客がドット増えた事例もありますけど・・・。

 

 

 

  亀山公園から「しょうぶ園」の散策道を望んだところです。

 

 多くのハイキング・散策を楽しむ方々がみえました。

 

3枚とも 

(撮影、H,24,11,28,)

 

「紅葉の名所」で有名な所へ行くと、渋滞に巻き込まれて苦労しますが、充分満足のいく亀山公園の紅葉です。 

(ここも有名になると渋滞して   

    ドットコムことになるのかナ?) 

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 平成25年8月8日 16時56分

   緊急地震速報 

「奈良県で地震発生」と出ましたが、体感の揺れはなく、誤報と思い、自宅から自転車で駅前に向かって行く道で西の空を眺めたところ、今まで見たことのない雲が見えたので、携帯電話カメラで写しました。
 時刻は確認していませんが、17時10分ごろの海本町からから見た西の空です。

 

 午前中は、ZTVの「高橋美帆の そこいこっ!」という番組で、「亀山めぐり唄」の収録を御幸地区コミュニティーセンターでしていただいた記念すべき日であり、この歌の【一番】に「白鳥になって飛んだよ 西の空」という歌詞もあり、何か因縁めいたことを少し感じたしだいです。

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 今度は翌日の西の空です。

平成25年8月9日

鈴鹿山脈に沈む寸前の夕陽が、鈴鹿川に映りながらの、「ちぎり絵」のような美しい写真となりました。

 

 これまた携帯電話カメラで「亀山橋」の上から写しました。

 

いつも見慣れた景色も、思わぬ姿を見せてくれるものです。

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  同じく、鈴鹿山脈に沈む夕日と鈴鹿川です。

平成25年9月20日 

快晴の日でした。
先日の台風18号で、川の砂の状態が変わりました。

同じ「亀山橋」の上から、同じ「携帯電話カメラ」で写しても、上の写真と、こんなに違うので、驚いています。

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 台風26号、通過後の朝「亀山橋」南詰めから100mほど川上の右岸堤防にて写す。
  平成25年10月16日、午前9時40分頃。

亀山橋を駅に向かって渡っている時、虹が目に入り、亀山製糸前でUターンをして、

橋を戻り、堤防にでて、携帯電話カメラで写しました。

 よく見ると上の方にも薄っすらと虹が出ているので、珍しい「ダブル レインボウ」では、と思っています。

 雨がパラついていましたので、車内から写しました。車窓の水滴も写っています。

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作詞 濱﨑 収(筆者)と作曲 原 正美 先生 

宗英寺(イチョウ寺)にて  H,24,5,19,

 

作曲の原先生との御縁は、宗英寺の檀家つながりで、最初は先生の弟の秀二様とお寺でお会いし、小生が「趣味で詩を書いた」ことをお伝えしたのが始まりでした。

その時の詩の中身は今見ると、実に粗末なものでしたが、先生のアシスタント的立場の荒木仍子先生(メゾソプラノ歌手、鎌倉のお寺の娘さん、「音楽の寺子屋」開設、ホームページも)が「面白い」と進言してくださり、その後、原先生がプロの作曲家としてのセンスでアドバイスしてくださり今の詩となりました。

 

先生は小学1年生の時、このお寺の当時の住職久野宏洲先生にピアノの手ほどきを受けたということです。

 

 原先生が中学生の時には、小林昭先生(がんちゃん先生)に音楽部員ということでトランペットを習い、四日市・海星高校時代に一念発起し、再度がんちゃん先生にピアノの特別教育を申し出て、厳しいご指導を受け、武蔵野音楽大学に入ったそうです。

 ちなみに久野先生と小林先生とは同い年だそうです。

 

H,24,6月にCDの試作品を持って、がんちゃん先生のお宅へ原正美先生と(故)村山昌碩さん(H,24,9月、他界。アマチュアドラマー・元JR職員・奉仕演奏活動で活躍・お孫さんがミユキッズのメンバー)と、小生と、3人でお邪魔をしました。(小生が中2の時の担任先生で、15年以上前に同窓会でお会いして以来ですが、名前を覚えていて下さり感激しました)

   がんちゃん先生は、いつも先生を「キダ・タロウが浪花のモーツワルトなら、君は亀山のメンデルスゾーンや」と言っておられるとのことで、CDへのコメントはなく、先生の趣味の写真に話の花が咲き、CDのジャケット図柄のみアドバイスしてくださいました。

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H,25,11,26,  宗英寺境内

 近隣や遠方からも、この時期、見に来られ、カメラに収める方も多くみえます。

   宗英寺は「華嶽山・宗英寺」といい、亀山藩の代表的な藩主「石川家」 系譜の中ほどの「石川康通(やすみち)」の戒名「宝樹院殿華嶽宗英大居士」に由来している。康通公は父家成公と共に徳川家康公に仕え、上総(かずさ)の国、千葉県・鳴渡に2万石を賜り、「長門の守(ながとのかみ)」と称されていた。関ヶ原合戦の時も徳川軍 の中核となって戦い、その功により1601年、美濃の国「大垣・5万石」の城主に任命された。

   禅を深く信仰し、大垣城下の隠子庵住持・宗頓禅師に帰依し、城内で法話をしばしば 聞かれたとのこと。

 大垣は関ヶ原に近い居城で、合戦で戦死した両軍の兵士の慰霊・供養の役割も仰せつかっていたのではないかと、推察される。

 大垣城内で卒去され、隠子庵が菩提寺となり「長州寺」と名付けられた。

   石川家は7回の移封(転勤)が有り、そのつど 菩提寺の「長州寺」一緒に移された。

 亀山赴任1度目は1651年、石川昌勝(まさかつ)公。

 2度目は1744年、石川総慶(ふさよし)公が 備中松山城(岡山県高梁市)から移封された。

 1783年本堂が再建され「長州寺」から「宗英寺」と改名された。   

 禅宗・臨済宗、「華嶽山・宗英寺」本山は京都  [ 妙心寺 ]

 

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  イチョウの木は、当時すでに大木となっていたと思われ、その大木と石川康通公の戒名の「宝樹院殿・・・・」と云うところがマッチしての改名と思われる。

<基礎資料>昭和34年、山田木水・著「亀山地方郷土史(全3巻)」

 山田家は宗英寺檀家で、現在、氏(木水氏のお孫さん)が継いでおられる。

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 亀山神社は、石川家の始祖八幡太郎・義家」公を主神として奉祀されている。 

 義家公の家督を継いだのは5男の義時公で「陸奥五郎・義時」と称された。

    「ムツゴロウ」? 聞いたことあるョナア~。

      「ハチマンタロウ」より有名や。

「ウルトラマンタロウ」は、もっと有名。

(冗談はさておき)      

 義時公の長男の義基公は、河内の国・石川郡(南河内郡)で、領主となり「河内石川城」を築城し、その時から「石川」の姓をなのった。

 時代的には、源頼朝公と同年代で、全盛期の平清盛公に攻められ、都大路で【さらし首】にされたが、長男の義兼公がかろうじて生き延び、その後勢力を拡大していった。

 石川家、中興の祖といわれる家成公は義基公から数え、16代目であり、徳川家康と母親同士が姉妹の従兄弟家成公が8才年上)である。

 家成公の兄の康正公の子で、にあたるのが数正公で、後に豊臣家にヘッドハンティングされ、信州松本城の城主となる。しかし、石川家の家督本流は、家成公の子孫が、徳川家の譜代大名として受け継いでいくこととなる。 

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 石川家が亀山へ赴任となった1度目の石川昌勝公は、まず最初に、多くの武将からも信望の厚かった、「 妙心寺、第14世住持・愚堂東寔大円宝鑑国師 」を住職として迎え入れるべく、当時の山田奉行、石川大隅守の援護のもと伊勢神宮の内宮・外宮の中間位置に、猛スピードで「中山寺(ちゅうざんじ)」を開山した。

 石川家は、名門源義家(八幡太郎・義家)の流れを汲み、そして徳川家康公と、石川家成公とは母親同士が姉妹の従兄弟であり、家成公と長男の康通公、父子共々家康公の側近として仕え、家成公から数えて5代目の家督を継いでいる昌勝公であるが、これまで石川家は移封移封の連続で、まるで外様大名のような扱われかたに、悩んでいたといわれ、愚堂大禅師に相談したところ一気に心の悩みが解消し上に心を奪われるのではなく、足元を見据えて、民のための政治に専心する 」という心境を取り戻した、という経緯がある。

 

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 <徳川家と石川家の確執> 

 知恵と武勇による戦果の実績・高いプライド・家康公との血縁、そして、その石川一族の中でも家康公の数々の危機を打破し、特に「本能寺の変」直後の家康公が、「堺から知恩院に入って腹を切る」というのを、本多忠勝公と共にそれを押し止め、堺から伊勢白子までの撤退段取りをした石川数正公が、その後、西三河で徳川家の守護重職を担っていたにもかかわらず、徳川を見切り豊臣に走ったこと(ただし、これは数正公のみで、家成公・康通公は関ヶ原合戦後も徳川家の譜代大名として勤めている)これらの経緯から徳川家から見れば石川家有能な家臣ではあるが、油断のできない一族と写ったのも、ごく当たり前であり、何代にも渡り蓄財・武力を持たせない処遇を受けたのも、時代背景から見て、いた仕方なかったと、考えることができる。

 

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 愚堂大禅師に関する逸話は、女流講談師の一龍斉貞弥の持ちネタ「愚堂国師一代記」にもなっている。(一龍斉貞弥は大分県臼杵市の妙心寺派「普現寺」というお寺の娘さん 

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 小生の書いた「亀山めぐり唄」の詩を「面白い」と進言して下さったメゾソプラノ歌手、荒木仍子先生は鎌倉の「貞宗寺」というお寺の娘さん。 

 このお寺は、徳川第二代目将軍(大河ドラマの江姫で脚光をあびた徳川秀忠公の母方の祖母の遺言で開山され、のちに芝増上寺直系の末寺となり、徳川家ゆかりの寺として、歴代将軍の命日には法要を営んでおられる。

 (徳川家の菩提寺としては、岡崎市の「大樹寺がある)

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 石川家成公・康通公ともに卒去後は「大樹寺」から1km程の所にある善楊院(家成公が建立した寺で、妻の戒名、善楊院殿天英晃雲大禅尼に由来する)で眠っておられる。

 石川家の菩提寺としては、長州寺(後の宗英寺があり、移封の際にも一緒に移設されている。(石川家ゆかりのお寺は、亀山市内に全部で4ヶ寺ある)

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宗英寺墓地内には「御流儀心形刀流武芸形」亀山藩・初代師範、山嵜雪柳軒の墓石がある。墓守は心形刀流保存会・「赤心会」

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石川家」はその姓をなのってからは、左の写真の丸に葦( あし )葉三枚家紋としており、旗頭には「蛇の目」を使用したと云われている。

 後世、家康公の特別承認を得て(一説には命により)、石川家成公の外孫大久保忠総を養子に迎え後継ぎとした後、「丸に笹竜胆」を家紋とすることが許された

 左の写真は、亀山神社拝殿正面入り口鴨居部に掲げられた木製家紋

 上の写真は木彫りで、左右対称にデザイン化されているが、石川家中興の祖「石川家成」公時代の家紋は葦葉( あしば )がスリムに描かれており、左右対称ではない。

 左の写真は「石川康通」公の位牌ケースに描かれた「丸に葦葉三枚」。

 石川家の始祖は 源義家(八幡太郎・義家)公であり、亀山神社は「義家」公を主神としており「笹竜胆」が亀山神社の御神紋となっている。

 

亀山神社拝殿最前部に掲げられた、

木製の御神紋

「 丸に笹竜胆 」

 

 竜胆の花が、正面を向いて描かれているのが特徴

 

 

亀山神社拝殿

 主神は源 義家

( 八幡太郎・義家 )

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 天下分け目の「関ヶ原」ですから、日本全国にこの出来事の影響を今も少なからず受けておられる方や、逸話も多くある思います。

 この「亀山めぐり唄」の話をするなかで、今まで全く意識していなかった、小生独自の「関ヶ原」との関わりに気付きました。

 詳しく書けば長くなり、読んでもらえないと思いますので、「キーワード」のみを掲げ、推察していただくこととします。関心のあるお方には、お話をします。

 

・国鉄、稲沢の独身寮友達HN君・同じ職場・同じ仕事・在所は関ヶ原で、山持ちの旧家。   

・独身寮時代「伊吹山山頂」と「関ヶ原古戦場」を案内してくれた。

・彼は「家紋」について強い関心を持ち、熱く語ってくれた。 

・国鉄民営化後、交信も途切れていたが、15年程前の正月、四日市のHH君に「HN君とこへ行ってみよに」と誘われ、アポなし突然で遊びに行き、年賀状のやり取りを再開した。 

・もう一人、関ヶ原在住・同じ職場・生年月日が同じのTK君とも年賀状のやり取りをしている。 

 

・次々と交代した亀山城主の中で、代表的な石川家。

 

・石川家ゆかりの宗英寺。

 

・宗英寺名前(寺号)は、関ヶ原合戦直後、大垣城主となった石川康通(やすみち)公の戒名に由来している

 

康通公は禅宗を深く信仰し、おそらく関ヶ原合戦の戦死兵士の慰霊・供養命ぜられたか、又は自主的に行なったか、と思われる。

 

・宗英寺住職の久野家・我が濱﨑家とも終戦直後のほぼ同じ時期に、この亀山に来た。

 

・父親(濱﨑直吉)は国鉄職員で、寺の近くの鉄道官舎に入り、その後母親同士の付き合いも始まり、実姉夫婦も寺のすぐ前の鉄道官舎に入り、小生は小学6年生(父親が国鉄定年退職し、官舎を出る)まで、いつもこの境内で遊んでいた

 

・亀山でお寺にお世話になるなら、禅宗であり、なじみ深いこのお寺にしたいと、末子である小生が家族を説き伏せ、檀家となった。27年前のこと。 

 

20年ほど前宗英寺住職、久野様ご家族と、鳥羽答志島( 小生の両親の出身地 )へ日帰り旅行に行った。 

 

・予定にはなかったが、帰りの船が出るまでに時間的余裕があったので、関ヶ原合戦で豊臣方に付いた九鬼嘉隆公の胴塚、首塚を拝見(息子、九鬼守隆は徳川方に付いて戦う)

 

・首塚で久野住職般若心経を唱える。 

 

・その時の紀行文を奥様の久野陽子先生が、文芸同人誌「方圓」第9号に掲載。 

 

・紀行文中の、Oさん=小生=現在宗英寺総代長を仰せつかっている。 

 

久野住職と料理を食べた旅館の主人の名前「康充(やすみち」=親戚 

 

・答志の重鎮の中の一人「靖導(やすみち」=親戚    

 

いちょう寺通信「ともしび」H,21,3,15,第306号に「石川康通(やすみち)」関連記事 

 

・国道306号線は亀山から関ヶ原へ行く時の道

 

◎などなど、不思議で面白い偶然は、何らかのメッセージでしょうか? 

 

アン・ビリバボー

九鬼嘉隆公も関ヶ原壮絶な戦死者の一人と考え、石川康通公の想いも、想像すると、なんとなく解る様な気もします。

 

久野住職引退後、兼務住職をお願いした加太・浄専寺前田住職とも、以心伝心という場面が多く、お互いに驚くことがよくあります。

 

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   もう一つ気になりだしたことがあります。

写真は、NHK津放送局が初めて手掛けたドラマ「ヤアに なる日」の結婚式の行列の場面です。

(ドラマの 舞台は鳥羽市・答志島 )

提灯の家紋丸に笹りんどう」は答志島の、あるお家の もので、源氏の流れを汲むものと思われます。

答志島の中に「揚羽蝶の平家の家紋のお家もあるそうで、また興味深いことを発見した思いです。 

 

 右図は平家の家紋「揚羽蝶

答志島、答志・白華山潮音寺(曹洞宗・永平寺派) 

寺紋は「揚羽蝶

ご本尊は、薬師瑠璃光如来

関ヶ原合戦直後の亀山城藩主「関一政」公は

平家の流れを汲み、家紋はこの「揚羽蝶」である。

亀山藩の代表的な藩主「石川家

家紋は源氏の流れを汲み「丸に笹竜胆(ささりんどう)  

石川家ゆかりの「宗英寺

  その墓地に「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)初代師範・山嵜雪柳軒」のお墓が有る。 

 

    昭和51 年(1976年)宗英寺本堂老朽化のため新築され、その際に保存保管となった鬼瓦

「竜胆の花」が正面をむいて描かれているのが特徴。

 

 

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ツアー旅行

2014,9,18~20

「東シナ海に浮かぶ美しい島 

甑島(こしきじま)と大隅半島 3日間」

にて、霧島の「ホテル京セラ」に、2泊したところ、ロビーに見たことのある作風のブロンズ作品が、展示されていたので、作者を確認したところ、亀山市の名誉市民「中村晋也」先生の作品でした。(2作品ありました)

この旅行で感動した偶然

1、中村晋也先生の作品のあるホテルに泊まれたこと。

 

 2、小生の叔父(母の弟)石倉金蔵は人間魚雷で戦死したと聞いていたが「どこから出港し、どのあたり死んだか全く分からない」と言われてきた。

    その人間雷の基地が甑島の瀬上(佐熊つる子さんの故郷)にあったということを、ガイドの方らお聞きし、「もしや、叔父さんはここから?」という気がしてきた。

 

 3、甑島の現地ガイドさんは男性70歳代で、三重県ゆかりが深く、四日市の三菱系の会社にお勤めだったとのことで、鈴木三重県知事のことや、答志島の「寝屋子」のことも良くご存じでした。

 

4、亀山の宗英寺と、同じ宗派(臨済宗・妙心寺派)の志布志「大慈寺」が見学コースに入っており、偶然このお寺に詳しい大学教授の方との出会いがあり、  

 お寺のこと島津藩のこと志布志の名の由来、等について、立ち話の様にして、お話を伺えたという恵まれた出来事がありました。

分秒クラス絶妙の出会いが、そこにありました)

 

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H,26,11,28,

宗英寺銀杏の木の剪定前

 

  平成10年の台風で太い枝が折れ飛び、ご近所のお家の屋根を突き破ったことがあり、近年台風が大型化してきているので、長く伸びた枝を、短くしていただくことになりました。

H,26,11,28,

 太陽が やや西に傾き、手前の柊(ひいらぎ)の木には太陽が当たっていません。

 黄・赤・緑・青 の原色の光景です。

 ちなみに、柊(ひいらぎ)の木が大きくなると、葉のトゲトゲは無くなります。

銀杏の木剪定プロジェクトチーム

 「石黒樹木医事務所チーム」

樹木医で、なおかつ木に登って剪定する人は、日本全国でも数少ないらしく、このチームは、「屋久島の杉」の樹勢回復にも携わったということで、鈴鹿市の「長太の大楠」も、面倒をみておられる、とのことです。

H27,3,  3~4の二日間で

剪定をしていただきました。

 

4月中旬から、新芽が出てきて

左の写真のようになりました。

( H27,5,5,    14:30頃 )

 

 

写真の角度で、石門が傾いてみえますが、まっすぐに立っています。

 

剪定後の新緑

H,27,5,5,



写真奥から、銀杏(いちょう)

      紅葉(もみじ)

       柊  (ひいらぎ)